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溜息は「ほろほろ」とおちる

「ほろほろ」おちて 何処かに溜まる

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【海の国へ】



 躊躇わず飛び込んだまではいいものの、瞬間に視界を占めた青色と真横を掠めていく魚の群れに一瞬だけひるみそうになった。水だ。硝子はしげしげとそれを確かめて、首を傾げる。
「……あらいやだ。これ溺れない?」
「そう言えるうちは溺れねェだろ」
 呆れたような声がして、本で出来た階段の二、三段下に黒雨が立っている。立っているといっても、相変わらず本には触れられないらしい。器用に下方から上がってくる泡を踏んでその場に留まっているようだ。
「きみもなかなか器用じゃない。よくそんなこと出来るね」
「あっという間に水中の件を忘れたおめぇの頭のスイッチの器用さにゃ負けるよ」
「……ああ、そういえば。溺れないのね?」
 言いながら、こつ、と階段状になった足元の本を降りはじめた。喋るたびに口から泡は出るし、下方からの気胞に触れれば散るのに、呼吸は出来るし服や髪が濡れるような感じはない。
 けれど、たしかに、水中なのだ。
「立体映像の中にでもいる気分」
「りったいえいぞう?」
「……あー。雪の国にはなかったね。オーパーツだ」
「おーぱーつ……」
「うん。気にするなってことだよ」
 言いながら、歩を進める。ほとんど外と変わりない感覚とは言え、たまに思い出したようにスカートのひだが上に揺れたり、三つ編みにした髪がふわっとあらぬ方向に流れたりするのだから油断は出来ない。黒雨が気遣うように差し出してくれた手に有り難く掴まって、ゆっくりと降りていく。水中の下の方、それこそ光が届かず薄暗く淀んで見えるその下まで、本の階段は螺旋状に伸びていた。
「水。湖――いや、海かな。ねえ、黒雨。海の話って分かる」
 変わらず、器用に泡を伝って下りている黒雨に声をかける。
「待てよ……ああ。海の国の物語ってのがあるぜ」
 黒雨はそれに応じて、背負った袋の中から一冊の本を取り出して目次を引いてくれた。本には、妖精であった祖父が作った絵本の題名が連なっている。中味はほとんどが白紙――唯一、歪みを正せた「雪の国の物語」だけがその正しい物語を頁に刻んでいる。その「雪の国の物語」の登場人物である彼がそれを持つなんて本来ならなんてメタ! と嘆きでもしたいところだが、仕方ない。それは、硝子について物語を渡ることになった黒雨の役割として固定されてしまった。
 今更役割を奪っては黒雨がどうなるかも分からない。
「海の国海の国……ああ、分かった。人魚姫だ」
「人形?」
「人魚。見たこと……は、ないか。雪の国には海なかったもんね。上半身が人間で、下半身が魚のお姫様と、王子様の恋愛話」
 簡単に説明すれば、黒雨が嫌そうに顔を歪める。
「なんだそれ。王子どうしたんだよ」
「なにが」
「怪物を嫁取りすんだろ? こわ」
「いや、それは……」
 反論しようとして、言葉を止めた。割と間違ってないぞ。
「王子ってそんなことまですんのか……こわっ。王子やめてよかった」
「やめてないでしょ」
「白雪に任したもん。俺はガラスと一緒に絵本直してまわるから王子やめたようなもんだ」
「あっそ」
 大分大事な役割であったはずなのに、それを軽く捨てたような発言をする黒雨にどう反応していいのか分からない。ついてきてくれたのは、有り難く思っているのだ。ちらちらと泳いでいる魚が、舞い上がる三つ編みを戯れにつついてくる。
 静かだ。
「……何が駄目になってるんだろうねえ」
「うん?」
「この世界さ。たぶん、人魚姫に何かあった、とかが筋だとは思うんだ。割とベーシックな話で、登場人物なんて人魚姫と王子様と海の魔女くらいだったから」
「魔女? 魔女も出てくるのか」
「うん。こわーい、魔女、が……」
 言いかけたところでぞわり、と背筋を悪寒が走る。
「ガラス?」
 黒雨が訝しげに、こちらを覗き込んだ。白い髪の間から見える黒曜石のような瞳にぶつかって、硝子は乾いた笑いを浮かべた。
「くろさめぇ……」
「どうした? なんか……」
「ごめん」
「え」
 謝るが早いか。
 ごお、という嫌な音が底の方から迫ってくる。気付けば周りにたくさんいた魚はおらず、泡だけが不穏に揺れていた。
 黒雨も気付いたらしい。
 やや焦ったように、硝子と海の底をせわしなく見比べた。
「いやあ、忘れてたね。魔女ってさ」
「お、おい、ガラス!!」
「呼ばれると、どこにいても気付くんだよね!」
 叫びと同時に、本の階段が下の方からがらがらと崩れていく。渦巻いた水が、階段を、そしてそれを降りる硝子を呑みこもうと迫ってくる。思えば同じ――厳密に同じかは分からないが――魔女である祖母も、どんなに小さい声で、どこで呼ぼうと、それに応じていた。それだけ魔女にとって名前は大事なものなのに、なぜ代名詞に近いとは言え呼んでしまった。
 なんたる迂闊。
 足元の本が崩れて、ぐん、と体が横薙ぎに浚われそうになる。泡も海流に呑み込まれたのか、黒雨に倣うことも出来ない。
 水中なら浮けばいいのに、という祈りもむなしく、海流に飲まれながら体は海底へ落ちていこうとする。
「ガラス!!」
 声と共に、腕を引かれた。そこは水中の利が勝ったのか、思ったより軽く、引かれるままに体は黒雨に引き寄せられる。
 黒雨は、庇うように硝子を抱きよせた。
「黒雨! まじごめん!!」
「軽いんだよお前!!」
 腕の中で叫んだ硝子に泣きそうな声で叫び返しながら、けれど黒雨が腕を緩めることはない。このまま海底に叩きつけられるということは流石にないと思いたいが、海流にぐるぐると巻き込まれながら硝子は、せめて黒雨と離れないように彼の体に腕を回せ。
「くっそ! ガラス! 下に着きそうになったらなんとか着地できるようにするからな?! たぶん力使えばどうにかなるからっ」
「あ……うん! 任せた!」
「代わりにお前、絶対『正しく』しろよ!!!」
 やけくそのように叫ばれた言葉に、思わず瞬きして、笑う。こんな瞬間に、と怒られるかと思ったが、黒雨は真面目な顔で硝子を見ている。
 体はぐんぐんと海底に向かって落ちていく。
 それでも力強く、硝子は叫んだ。

「当たり前でしょ。私はそのために来たんだから!」


 海の国の物語は、そうして。
 二人の異邦人を呑みこんで始まった。




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下の逆。イラストを先行で書いてもらって、それを見て小説をつけました。
同じく、30分の時間制限でした。
イラストは再び冬木さん。三十分なので私の方が不完全燃焼してる感がやばい。

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